廃鉱跡を訪ねて 京都府 鐘打鉱山

私は、廃墟・廃屋・廃村・廃鉱などを訪れるのが好きです

なぜならば、そこに人々の生活が 「かつてあった」 からです。


人々の生き死に・泣き笑い・必死に生きていこうとする生活の爪痕を、過去の私が訪れる事により
何かを感じてみたいと思い立った事からこの旅ははじまってます。

学生の頃から、バイクにテントを積み込んで日本全国を旅しました。
47都道府県・行った事がないのはあと沖縄県だけとなりました。

旅行の最中は秘湯中の秘湯というような温泉を制覇するのが旅の主とした目的でした。
ただそこには必ずと言っていいほど、廃屋があったり、村の痕跡があったり、鉱山跡があったり
したわけです。

人々の息づかい

廃墟から私はそれを感じ取りました

こんな所にも生活があったんだなぁと・・・・・・

こんな想いを持つのも、大好きな「平家物語」が原典になってると思ってます。


平家物語第一巻 有名な冒頭部分の一部ですが

諸行無常の響きあり

 ・ ・(中略)

おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ



過去訪れた分は、デジカメなど無かった時代の事ですのでアルバムに保存してあります
せっかくブログをやってますので、備忘録がてら、新規に訪れた所を載せていきたいと思います。



2008年 6月15日

京都府 和知町 鐘打鉱山跡 


ここの鉱山跡を知ったのはほんの偶然でした。

和知ダムを訪れた際に、たまたま山菜採りに訪れていた老夫婦の方にお話をお伺いした事から
話ははじまります。

ご夫婦とも以前の鐘打鉱山に鉱山夫として働いていたそうです。
そのときの思い出を断片的ではありましたが、教えていただきました。

嫁さんの両親は共に和知町周辺の生まれです。

帰宅後、「こんな人たちと出会ったよ」「こんな話を聞いたよ」という話をしたわけですが
特にお母さんが昔を懐かしがられて、知らないはずの事柄なのに意気投合・会話が弾んでしまいました

お母さんが通っていた小学校にも鉱山で働いていた人たちの子供達が通学していたそうです。
今、その子供達もいい歳になってしまいました(笑)

まさに  過去  になりつつあります


歴史の授業とは生きたものの授業だと考えております。

年号を覚えるだけの授業など「糞くらえ」です
先人の生きた様を学ぶことが、今の私達の生きる糧となり、それを後生に伝えていくことで
また新しい歴史となり、未来が作り出されるのです。

 

頭が痛くなる話を長々すんません。

話を元に戻します



和知ダム奥の一本道を延々登っていくと・・・・・
旧鉱山事務所に行き当たります
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誰かが所有しているみたいで、増改築を行い今でも新しい建物になってます

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廃墟になった今でも地名は残り続けます

道中には、至る所で岩盤が迫り出しており、岩礁帯がむき出しになっています
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丹波地方は有数のマンガン鉱石の産地であり、何処でも掘ればごろごろ出たそうです。
昔のいわゆる山師と呼ばれる人が山中深く分け入り、地表付近の露出した鉱脈を発見したんでしょうね

岩礁帯を通過した辺りから→鉱山跡らしい足跡が伺われるコンクリート跡が次々にあらわれます
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ここから先は林道です。車の進入は難しいため徒歩で進みます
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この辺一帯が一番栄えていたそうなのですが・・・・・今となっては藪に覆われて
まったくその痕跡を探し出すことはできませんでした。

ただ石垣は何百年経っても残り続けるものです
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道中には無数の鉱山入り口跡があるらしいのですが、発見できませんでした。

林道を登るに上り詰めて唯一発見したのが、ここです。
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よ~く見ないと見過ごしてしまうほど小さな坑道でした。
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手掘りで、人一人がかがんでようやく這い進める程度の高さです


鐘打鉱山は、1930年(昭和5年)の創業です。
タングステン鉱を産出しており、当時の日本の30%のシェアを誇っていたそうです。

タングステンは非常に硬い金属で、当時の戦争しまくりの日本では非常に重要な鉱脈でした。

なぜならば、タングステンは硬さを利用して

戦車砲の鉄鋼弾に使用されたり
逆に戦車の装甲板に用いられたりと、攻守両極面に威力を発揮しました

日本陸軍が目を付けるのは自明の理であったのです



戦後は1951年 鐘打鉱業(株)を設立、1982年に閉山されるまでに
60年間の歴史があり、当時の歴史は両親の子供心として今に残っています。

その当時は社宅ができており、従業員も300人を超えたそうです。

京都交通のバスが国鉄和知駅と鉱山を往復。
駅からは通勤の鉱山労働者を運び、社宅からは子供達を乗せて学校へと送って行ったそうです。

この話は老夫婦からもお母さんからもお聞き致しました。
鉱山労働者の人は結構羽振りが良かったそうです。



今では草木が生い茂り、ほとんど誰も来ない場所になってしまいました。

ただ、わずか20数年前には多くの人々がここで生活し、泣き笑い・そして生き死にがありました。

誰も想像がつかないほどの草木が生い茂りその痕跡はわずか数十年で消し去られようとしています


平家物語の文頭に

「風の前の塵に同じ」

人々の生き様も春の世の夢のごとく一介の塵と同様に無惨にも消え失せていく時の流れの中で

ただただ、痕跡を奪い去るかのように新緑の木々や植物が埋め尽くされていく様を

私はじっと見ているだけしかありませんでした。